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歴史の隙間に埋もれた漂泊の芸能者たちの実像を追いかけています
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私は東北生まれ東北育ちです。
そういう人間が旅芸人や放浪芸の歴史を調べていくと、ある違和感を覚えはじめます。
書物に現れる情報が西日本に偏り気味である……ということです。
つまり東日本の、旅芸人を含むプロ芸人の情報は少ないように感じました。
とりわけ東北地方、さらに北海道となると、ゼロではないにしろ極端に少なくなります。
それは中世以前において顕著です。


■旅芸人の記録

西日本の情報が豊富に存在するのは、古代から奈良と京都という都があった場所だからでしょう。文字の記録が残っており、その多くは貴族や大きな寺社によるものです。そこには都周辺の散所・河原・寺社にたむろする雑芸者の姿が綴られています。
それに反して東北・北海道地方は、特に中世までは文字の記録自体が、旅芸人に限らず少ないのです。そうなるのは、さまざまな歴史的背景が影響しています。

とはいえ北国にも旅芸人はいました。
北国にやってくる者も、北国からから旅立つ者も。
少なくとも近世になると、書物にその者たちの記録が残るようになるので、彼らの様子を窺い知ることができます。
たとえば歌舞伎役者が江戸から巡業に来ることもあったようです。岩井半四郎も仙台や盛岡で公演を行ったといいます。落語家や浄瑠璃語りなどもやって来ました。

書物でいえば、かの有名な松尾芭蕉の『奥の細道』にも、旅芸人らしき芸能者が登場します。芭蕉が塩竃で出逢った、奥浄瑠璃を語る盲目の琵琶法師です。
奥浄瑠璃とは東北地方特有の語り物です。仙台浄瑠璃ともいいます。

菅江真澄(すがえ ますみ)の著作にも、いくつか記述があります。
真澄は江戸後期の国学者であり紀行家です。三河の出身ですが、天明3(1783)年より信濃・奥羽・蝦夷地を遊歴し、最終的に秋田に永住しました。
長い旅の記録を、真澄は日記・随筆・地誌・図絵などに残しました。そこには地方の庶民の生活がありのまま記してあり、貴重な民俗資料になっています。
そしてその中に、旅先で出逢った旅芸人についての記述もありました。
胆沢では三絃(三味線)を持った二人組の盲法師と相宿します。盲法師は、囲炉裏端で子供らに昔話を聴かせました。
また盛岡では、浪速のおに吉と名乗る、法師姿の語り物芸人と道中を連れ立って歩いたといいます。

菅江真澄より少し後の時代、文政11(1828)年から天保2(1831)年に、富本繁太夫という芸人が、東北から越後へ旅歩きました。
繁太夫は江戸の出身で、富本節(浄瑠璃の一派)の名取り。彼の旅日記『筆満可勢(ふでまかせ)』には、地方での興行の様子が綴られています。
そのなかで繁太夫は、盛岡で地元の顔役に気に入られ、自身も居心地がよかったらしく長居したことを書いています。さらに盛岡を拠点にして、遠野・釜石・大槌・山田・宮古・鍬ヶ崎などの三陸海岸まで廻っていたようです。
しかし繁太夫はお調子者だったらしく、ある問題を起こして盛岡にいられなくなり、秋田へ向かうことになります。その後も各地を転々としたようです。


■ボサマとイタコ

北国で生まれた芸人もいました。
ボサマとイタコが、代表的なものになるでしょうか。
ボサマとは盲目の男性芸能者です。三味線を持ち、主に門付けを行ないました。
女性であるイタコとは、恐山でおなじみのあのイタコです。現代と同様に口寄せ(降霊術)を行いましたが、かつては芸能の色も強く、オシラ様と呼ばれる人形を舞わして、馬と娘の恋愛譚を語ったりしたそうです。

菅江真澄は、天明8(1788)年、盛岡で琵琶法師風の男と盲巫女(イタコ)とよばれる女が、二人一組で北上川を渡る様子を目撃しています。夫婦だったかもしれません。
ちなみに、私の浅い知識で断言はできませんが、このような組み合わせは珍しくなかったようです。『まんが日本昔ばなし』のエピソードの一つ「狐の嫁取り」にも、琵琶法師とイタコの夫婦が登場します。


■北国の旅芸人と昭和の芸能界

ボサマとよばれる門付け芸人は、昭和初期までは、東北・北海道でよく見かけられたようです。
津軽三味線奏者の高橋竹山もまた、ボサマの流れをくむ芸能者といえます。
高橋竹山は、一地方の民謡の伴奏楽器にすぎなかった津軽三味線を、芸術の域まで高めた人物です。晩年に勳四等瑞宝章を受賞するなど数々の栄誉を得ますが、その始まりは「ホイド(乞食)」と蔑まれる、漂泊の芸人でした。

明治45年に青森県小湊に生まれた竹山は、2、3歳の頃に病で半失明します(22、3歳の頃に完全失明)。
そして14歳でボサマの戸田重次郎の弟子になり、15歳から各地を門付けして歩くようになります。青森・秋田・岩手・宮城・山形・北海道、さらに樺太まで旅歩き、そのなかで三味線の腕が磨かれました。また三味線が立ちゆかぬ時は、飴売りや大道売りなどもしたそうです。
戦後の昭和25(1950)年から、竹山は津軽民謡の父とよばれた成田雲竹とコンビを組み、舞台やラジオに出演するようになります。
昭和38(1963)年には、史上初となる津軽三味線の独奏だけのLPレコードを発売。
昭和48(1973)年より、小劇場 渋谷ジァンジァンで公演を始め、若者の支持も受けます。後年、海外公演も行なわれるようになりました。

また、高橋竹山という存在自体が、クリエイターを刺激し作品に生み出させました。
昭和52(1977)年に、竹山をモデルにした映画が公開されます。新藤兼人監督の『竹山ひとり旅』です。
昭和55(1980)年には、これも竹山をモデルに星野哲郎が作詞した『風雪ながれ旅』が大ヒットします。歌ったのは北島三郎で、その後、紅白歌合戦で何度も披露することになります。
このような八面六臂の働きによって津軽三味線は全国に広まり、上妻宏光や吉田兄弟など若い世代の活躍につながることになるのです。

さらに昭和の歌謡界でスターになった歌手の中にも、北国の旅芸人と縁のある人物がいます。
北海道で生まれたこまどり姉妹は、貧しい家庭を助けるため幼い頃から門付けをして歩きました。後に東京に渡り、浅草の飲食店で流しをしていたところ、スカウトされてレコードデビューしました。
藤圭子は岩手県一関生まれの北海道旭川育ち。父と母は浪曲師で(母を瞽女と表現する記事もある)、藤圭子自身も門付けする両親に同行し歌を歌ったといいます。彼女も、やがて東京に渡りレコードデビューし、『圭子の夢は夜ひらく』の大ヒットでスター歌手になりました。
こまどり姉妹の二人は、今も現役で活動されています。
藤圭子は残念ながら亡くなりましたが、ご存じのように娘である宇多田ヒカルは活躍中です。

北国の旅芸人の血脈は、現代の芸能界にも流れ続けている……のかもしれません。

(2017年4月18日 修正)

主な参考資料:
三隅治雄 『さすらい人の芸能史』 (NHKブックス)
菅江真澄/内藤武志 宮本常一(編著)『菅江真澄遊覧記(2)』 (平凡社/東洋文庫)
宮本常一 『旅の民俗と歴史4 庶民の旅』 (八坂書房)
釣谷真弓 『人物でたどる おもしろ日本音楽史』 (東京堂出版)
武田正 『昔話の発見ー日本昔話入門ー』 (岩田書店)


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【2017/04/16 13:25】 | 旅芸人よもやま話
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