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歴史の隙間に埋もれた漂泊の芸能者たちの実像を追いかけています
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■境界を越えてきた者たち

交通機関が発達していない時代、さまざまな制限もあり、庶民が旅をするのは簡単なことではありませんでした。山村に住む人々であれば、なおさらです。
とはいえ行商に行く者はいましたし、村の代表者が伊勢参りに向かうことはありました。しかしほとんどの人は、生まれた村の中でのみ生きていました。
そうなると得られる情報は限られてきます。江戸以前はテレビもラジオもなく、書物を読むのも庶民には難しいことでした。つまり「外の人間」や「外の文化」に触れる機会は、非常に少なかったわけです。
そんな人々にとって、年に何度か村境を越えてくる旅芸人は、極めて異質な存在でした。


■神の代理人

そもそも旅芸人は何をしに村に来たのでしょうか? 「芸を見せるため」がすべてとは言い切れません。
俳優であり放浪芸の研究者でもあった故・小沢昭一さんは、著書で旅芸人を「神の代理人」と表現しています。

昔の人たちは、新年の始まりに神が来訪し、一年の祝福を与えると信じていました。
やがて人々は神の姿を真似るようになります。祝言を述べ、歌い、舞い、神の代わりに幸福を祈るのです。村人自ら神を演じることもありますが、住む所を定めぬ漂泊民がその役を担うことが多くありました。それが旅芸人の源流の一つだとされています。
もともと芸能者は、ある種の呪術者として「祝うこと」と「祓うこと」を役割としていました。そうした芸能者たちの中で大きな割合を占めていたのが、定住せず各地に芸を運んだ者たちだったのです。万歳・猿まわし・獅子舞・人形まわしなどは、その流れをくむ芸能です。

そのような旅芸人を、村人たちは畏れと蔑みの入り交じった目で見ていたと考えられます。
かつて「芸能人」は憧れのエンターテイナーではありませんでした。神と交信する呪術者であると同時に、農耕社会からはみ出した卑しい者と見られていました。いわゆる「乞食」と同等の扱いを受けていたのです。
江戸時代になると、エンターテイメントとしての芸能が根付きはじめます。それでも旅芸人を含む芸能人の地位が上がることはありませんでした。


■文化の伝播者

境界を越えてやってくる旅芸人は日常をかき乱す存在でした。
風のように現われ、風のように去って行く。
使い古された詩的な表現が似合ってしまう。そんな旅芸人たちですが、訪れた村々に落とし物を残していました。
それは「信仰」と「娯楽」と「情報」です。すべてまとめて「文化」と言い換えることもできるでしょう。

旅芸人が歌にのせて語る物語は、人びとを楽しませました。語りの場では、遠い土地で起きた事件も語られたでしょう。それらの中には昔話や人形浄瑠璃、歌舞伎の種になったものも多くありました。 
例えば西日本で生まれた「桃太郎」の物語が、関東、東北へとディテールを変えながらも伝わっている。それも旅芸人が文化の伝播者だった証拠の一つです。(※桃太郎の起源は諸説あります)
また、各地に伝わる村歌舞伎の中には、旅芸人の影響を受け誕生したものもあります
旅芸人は電波のごとく、全国津々浦々に文化を行き渡らせたのです。

「媒体」を辞書で引くと「情報伝達の仲立ちになるもの」とあります。旅芸人はまさに媒体の役割を果たしています。
旅芸人はメディアだった。新聞に雑誌、ラジオとテレビとインターネットに変わる存在だった言っても、過言ではないかもしれない。
そこが旅芸人のという存在の面白さなのです。


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私は東北生まれ東北育ちです。
そういう人間が旅芸人や放浪芸の歴史を調べていくと、ある違和感を覚えはじめます。
書物に現れる情報が西日本に偏り気味である……ということです。
つまり東日本の、旅芸人を含むプロ芸人の情報は少ないように感じました。
とりわけ東北地方、さらに北海道となると、ゼロではないにしろ極端に少なくなります。
それは中世以前において顕著です。


■旅芸人の記録

西日本の情報が豊富に存在するのは、古代から奈良と京都という都があった場所だからでしょう。文字の記録が残っており、その多くは貴族や大きな寺社によるものです。そこには都周辺の散所・河原・寺社にたむろする雑芸者の姿が綴られています。
それに反して東北・北海道地方は、特に中世までは文字の記録自体が、旅芸人に限らず少ないのです。そうなるのは、さまざまな歴史的背景が影響しています。

とはいえ北国にも旅芸人はいました。
北国にやってくる者も、北国からから旅立つ者も。
少なくとも近世になると、書物にその者たちの記録が残るようになるので、彼らの様子を窺い知ることができます。
たとえば歌舞伎役者が江戸から巡業に来ることもあったようです。岩井半四郎も仙台や盛岡で公演を行ったといいます。落語家や浄瑠璃語りなどもやって来ました。

書物でいえば、かの有名な松尾芭蕉の『奥の細道』にも、旅芸人らしき芸能者が登場します。芭蕉が塩竃で出逢った、奥浄瑠璃を語る盲目の琵琶法師です。
奥浄瑠璃とは東北地方特有の語り物です。仙台浄瑠璃ともいいます。

菅江真澄(すがえ ますみ)の著作にも、いくつか記述があります。
真澄は江戸後期の国学者であり紀行家です。三河の出身ですが、天明3(1783)年より信濃・奥羽・蝦夷地を遊歴し、最終的に秋田に永住しました。
長い旅の記録を、真澄は日記・随筆・地誌・図絵などに残しました。そこには地方の庶民の生活がありのまま記してあり、貴重な民俗資料になっています。
そしてその中に、旅先で出逢った旅芸人についての記述もありました。
胆沢では三絃(三味線)を持った二人組の盲法師と相宿します。盲法師は、囲炉裏端で子供らに昔話を聴かせました。
また盛岡では、浪速のおに吉と名乗る、法師姿の語り物芸人と道中を連れ立って歩いたといいます。

菅江真澄より少し後の時代、文政11(1828)年から天保2(1831)年に、富本繁太夫という芸人が、東北から越後へ旅歩きました。
繁太夫は江戸の出身で、富本節(浄瑠璃の一派)の名取り。彼の旅日記『筆満可勢(ふでまかせ)』には、地方での興行の様子が綴られています。
そのなかで繁太夫は、盛岡で地元の顔役に気に入られ、自身も居心地がよかったらしく長居したことを書いています。さらに盛岡を拠点にして、遠野・釜石・大槌・山田・宮古・鍬ヶ崎などの三陸海岸まで廻っていたようです。
しかし繁太夫はお調子者だったらしく、ある問題を起こして盛岡にいられなくなり、秋田へ向かうことになります。その後も各地を転々としたようです。


■ボサマとイタコ

北国で生まれた芸人もいました。
ボサマとイタコが、代表的なものになるでしょうか。
ボサマとは盲目の男性芸能者です。三味線を持ち、主に門付けを行ないました。
女性であるイタコとは、恐山でおなじみのあのイタコです。現代と同様に口寄せ(降霊術)を行いましたが、かつては芸能の色も強く、オシラ様と呼ばれる人形を舞わして、馬と娘の恋愛譚を語ったりしたそうです。

菅江真澄は、天明8(1788)年、盛岡で琵琶法師風の男と盲巫女(イタコ)とよばれる女が、二人一組で北上川を渡る様子を目撃しています。夫婦だったかもしれません。
ちなみに、私の浅い知識で断言はできませんが、このような組み合わせは珍しくなかったようです。『まんが日本昔ばなし』のエピソードの一つ「狐の嫁取り」にも、琵琶法師とイタコの夫婦が登場します。


■北国の旅芸人と昭和の芸能界

ボサマとよばれる門付け芸人は、昭和初期までは、東北・北海道でよく見かけられたようです。
津軽三味線奏者の高橋竹山もまた、ボサマの流れをくむ芸能者といえます。
高橋竹山は、一地方の民謡の伴奏楽器にすぎなかった津軽三味線を、芸術の域まで高めた人物です。晩年に勳四等瑞宝章を受賞するなど数々の栄誉を得ますが、その始まりは「ホイド(乞食)」と蔑まれる、漂泊の芸人でした。

明治45年に青森県小湊に生まれた竹山は、2、3歳の頃に病で半失明します(22、3歳の頃に完全失明)。
そして14歳でボサマの戸田重次郎の弟子になり、15歳から各地を門付けして歩くようになります。青森・秋田・岩手・宮城・山形・北海道、さらに樺太まで旅歩き、そのなかで三味線の腕が磨かれました。また三味線が立ちゆかぬ時は、飴売りや大道売りなどもしたそうです。
戦後の昭和25(1950)年から、竹山は津軽民謡の父とよばれた成田雲竹とコンビを組み、舞台やラジオに出演するようになります。
昭和38(1963)年には、史上初となる津軽三味線の独奏だけのLPレコードを発売。
昭和48(1973)年より、小劇場 渋谷ジァンジァンで公演を始め、若者の支持も受けます。後年、海外公演も行なわれるようになりました。

また、高橋竹山という存在自体が、クリエイターを刺激し作品に生み出させました。
昭和52(1977)年に、竹山をモデルにした映画が公開されます。新藤兼人監督の『竹山ひとり旅』です。
昭和55(1980)年には、これも竹山をモデルに星野哲郎が作詞した『風雪ながれ旅』が大ヒットします。歌ったのは北島三郎で、その後、紅白歌合戦で何度も披露することになります。
このような八面六臂の働きによって津軽三味線は全国に広まり、上妻宏光や吉田兄弟など若い世代の活躍につながることになるのです。

さらに昭和の歌謡界でスターになった歌手の中にも、北国の旅芸人と縁のある人物がいます。
北海道で生まれたこまどり姉妹は、貧しい家庭を助けるため幼い頃から門付けをして歩きました。後に東京に渡り、浅草の飲食店で流しをしていたところ、スカウトされてレコードデビューしました。
藤圭子は岩手県一関生まれの北海道旭川育ち。父と母は浪曲師で(母を瞽女と表現する記事もある)、藤圭子自身も門付けする両親に同行し歌を歌ったといいます。彼女も、やがて東京に渡りレコードデビューし、『圭子の夢は夜ひらく』の大ヒットでスター歌手になりました。
こまどり姉妹の二人は、今も現役で活動されています。
藤圭子は残念ながら亡くなりましたが、ご存じのように娘である宇多田ヒカルは活躍中です。

北国の旅芸人の血脈は、現代の芸能界にも流れ続けている……のかもしれません。

(2017年4月18日 修正)

主な参考資料:
三隅治雄 『さすらい人の芸能史』 (NHKブックス)
菅江真澄/内藤武志 宮本常一(編著)『菅江真澄遊覧記(2)』 (平凡社/東洋文庫)
宮本常一 『旅の民俗と歴史4 庶民の旅』 (八坂書房)
釣谷真弓 『人物でたどる おもしろ日本音楽史』 (東京堂出版)
武田正 『昔話の発見ー日本昔話入門ー』 (岩田書店)



【2017/04/16 13:25】 | 旅芸人よもやま話
|
芸能にまつわる歴史を見ていくと、名前に「○○太夫(たゆう)」と付く芸能者が多く存在することが分かります。「大夫」とも書き、「だいふ」「だいぶ」と読む場合もあります。
現代でも、人形浄瑠璃の語り手は「太夫」と呼ばれます。毒蝮三太夫さんやコウメ太夫(小梅太夫)さんなど芸能人の名前に使われることがありますし、時代劇に登場する遊女の呼び名としても耳なじみがあるでしょう。

かつて芸と色に関わる人々の呼称に使われ、今も形を変えて残る「太夫」とは何なのでしょうか。

辞書によれば、もともとは「大夫」で古代中国において官位を表す言葉だったようです。五位の称号で、貴族クラスの身分でした。
それが古代日本の朝廷に伝わり、同じく身分を示す言葉になりました。時代によって変化はあるようですが、基本的に五位以上の男性官吏(国家公務員)がそう呼ばれていまいた。
そのなかで伊勢神宮の権禰宜など、神職にも五位の称号を与えられ「大夫」および「太夫」と呼ばれるようになりました。
そこからの流れで、いつしか官吏ではない神職も、さらに神事として芸能の行う者も「大夫/太夫」と呼ばれるようになったと考えられます。
そして中世には、広く芸能者の呼称として用いられるようになったようです。
(なぜか時代を下ると「太夫=たゆう」率が高くなっていきます)

大ざっぱですが歴史を辿ったところで、自分の頭の整理のためにも「太夫」を分類してみます。
まず大きくカテゴリー分けすると、主に四種の職業に使われていることがわかりました。

イ.神職
ロ.芸能者
ハ.遊女
ニ.役人

「ニ」の役人は一旦脇に置かせていただき、芸能に関連する「イ」「ロ」「ハ」に、もう少し具体的な職種を並べてみます。

「イ」に含まれるもの
・御師(おし/おんし) (下位の神職)
・地方の村で祭祀を行う者 (陰陽道に似た民間信仰。いざなぎ流 等)

「ロ」に含まれるもの
・人形浄瑠璃語り (今も語り役は「太夫」「大夫」を名乗る)
・歌舞伎の女形 (アルキ巫女だった「出雲阿国」以来の宗教的伝統か)
・その他の芸人 (万歳、猿まわし 等)

「イ」と「ロ」の中間にあるもの
・神事舞太夫(しんじまいだゆう) (神事舞の専従者)

「ハ」に含まれるもの
・遊女 (江戸時代の遊郭で最上位の遊女)
 
このなかで遊女たちは、なぜ太夫と呼ばれたのか判然としません。
「遊女の始まりは巫女の一種でもあったので、そこから来ているのではないか?」
「江戸初期の女歌舞伎に由来しているのではないか?」
など、諸説ありますが確定はしていません。

ただひとつわかるのは、この「遊女」と「人形浄瑠璃」に、「太夫つながり」があったことです。
人形浄瑠璃の先祖は「傀儡子(くぐつし/かいらいし)」が行なった人形芝居だといわれています。
傀儡子は各地を放浪する芸能集団でした。(「傀儡師」とも書く)
そしてこの傀儡子と遊女は、ともに「百太夫(ひゃくだゆう/ももだゆう)」という神を信仰していました。百太夫は操り人形の祖神とされている、民間信仰の神です。道祖神にもなっています。
ならば人形使いや遊女は崇拝する百太夫から「太夫」をいただいたのかというと、必ずしもそうではなく、謎は多いです。

ところで太夫といえば、五説経の一つであり森鴎外の小説の題材になった「山椒太夫(さんしょうだゆう)」が有名です。
これについて柳田国男は「山荘太夫とは、“さんじょの太夫”だったのではないか」との説を唱えています。「さんじょ」は「散所」「算所」のいずれかが当てはまると考えられますが、異論もあり、これも謎は謎のままです。

……とりとめなく風呂敷を広げてしまいましたが、今日のところはこの辺で失礼します。


主な参考資料:
廣瀬久也 『人形浄瑠璃の歴史』(戒光祥出版)
川尻泰司 『日本人形発達史・考』(晩成書房)
豊浜紀代子 『娼婦のルーツを訪ねて』(かもがわ出版)
渡辺憲司(監修)『江戸三〇〇年 吉原のしきたり』(青春出版社)
沖浦和光  『「悪所」の民俗誌 色町・芝居町のトポロジー』(文春新書)
塩見鮮一郎 『中世の貧民 説経師と廻国芸人』(文春新書)



【2017/02/05 23:57】 | 旅芸人よもやま話
|
鏡開きも終わったところですが、正月の話をとりとめなく。

この年末年始に放送されたテレビ番組で、正月にまつわる豆知識がいくつか紹介されました。
その中で私が一番気になったのは、
『初夢に見ると縁起がいいとされる「一富士ニ鷹三茄子」に続く言葉は何か?』
…というもの。その答えは「四扇五煙六座頭」でした。
ただしこれは地域によっていろいろなパターンがあるようですが、その中で比較的有名なバージョンが「扇・煙・座頭」らしいです。

扇は末広がり、煙は上昇する、だから縁起がいい。
で、六番目になぜ座頭かといえば、「座頭には毛がない → 怪我ない」というシャレで、つまり家内安全ということ。日本人が好きな言葉遊びですね。

恥ずかしながら初耳でした。
そして気になったのは、なぜここで座頭が出てくるかということです。
同じ坊主頭なら僧侶や医者もいるだろうに、座頭があがってくる。
それはきっと、かつての日本人にとって座頭は親しみを感じる存在だったからではないでしょうか。そのことが興味深く感じたのです。

そもそも座頭とは、室町時代から江戸時代にかけて存在した、男性盲人の組織「当道座(とうどうざ)」における階級のひとつでした。
「検校(けんぎょう)」「別当(べっとう)」「匂当(こうとう)」「座頭(ざとう)」の四つがあって、座頭は一番低い位だそうです。
『平家物語』(平曲)を語る琵琶法師から始まったということで、当道座に所属する者たちは僧の姿、つまり坊主頭であったと考えられます。
江戸時代には平曲の人気は下火になりましたが、当道座の者たちは三味線・琴・鼓弓などに手を伸ばし、芸の幅を広げたようです。また按摩や針灸を職業とする者も多く、さらに金融業に関わる者も出てきました。
「座頭」と呼ばれる存在は、市井の人々の近くに息づいていました。
それは都市に限ったものではなく、山村漁村でも同様であったと考えられます。琵琶や三味線を持って語り芸を見せる芸人として、あるいは按摩さんとして、各地を旅歩く座頭が多くいたからです。

「ザトウクジラ」の由来は、琵琶を背負った座頭に姿が似ているからといわれています。「座頭鯨」なのです。
また昔話にも、座頭が登場する物語があるようです。テレビアニメ『まんが日本昔ばなし』においても「狐の嫁取り」「座頭の木」という話に座頭が登場します。
座頭といえば忘れちゃいけない映画『座頭市』の主人公・市は盲目の侠客です。そして『座頭市』は子母沢寛が1948年に書いた短編小説が原作であり、「座頭の市」には実在のモデルがいたそうです。
こうしたエピソードからも、座頭が身近な存在だったことがうかがえます。

僧の姿をした盲目の芸人の中には、座に所属しないフリー芸人もいたかもしれません。しかしそんな者たちもまとめて「座頭」と呼ばれていたようです。
以下は想像を含む話です。
四つの位のなかで一番低い座頭は平社員のようなもので、要するに数が一番多く、庶民とふれあうこと事も多かったのではないでしょうか。
だからこそ人々の間で座頭の名が浸透していき、当道座とは関係ない場合でもそう呼ばれるようになった気がします。僧形であり盲目である者の総称のようになったのです。

中世から近世にかけての日本には、すべて把握するのは不可能なほど多種多様な芸能者が生きてました。しかし彼らは文明開花の後、衰退し、世間から忘れられていきます。当道座も明治初期に廃止されました。
こうした状況のなかで座頭は、『座頭市』という作品の偉大さもあって、かろうじて現代人にも認識される数少ない旅芸人の一つとなっています。
その事実もまた不思議で心引かれるのです。



旅芸人の歴史とは、すなわち賤民の歴史であるといえるかもしれません。
ストレートに現代的な言い方をすれば、被差別部落を出自とする人々が、旅芸人の中で多くの割合を占めています。少なくとも昭和の初めまでは、その傾向が強いようです。
年中旅をする者もいれば、正月だけ遠くの村で祝福芸を披露する者もいました。出稼ぎ芸人ともいえるでしょう。

また、被差別民が暮らす村ばかりでなく、江戸・京都・大阪のような大都市の中に、芸人だけを集めた町もありました。お上が最下層のいかがわしい者どもを管理しやすくするため、そんな場所ができたらしいのです。
そこに住む者たちは道々であらゆる芸を披露しました。

これら賤民の芸能が、今も残る歌舞伎・人形浄瑠璃・能狂言などの「日本の伝統芸能」に影響を与えることになります。

俳優であれ歌い手・踊り手であれ、近代まで芸能民は差別されていました。
それは、生まれながら差別される立場にあった人間は、芸能で日銭を稼ぐより道がなかった…という事実の裏返しでもあるのでしょう。


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