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歴史の隙間に埋もれた漂泊の芸能者たちの実像を追いかけています
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民俗学者の折口信夫は、著作『雪の島』(昭和2年頃)の中で、声聞師(唱門師)を以下のように評しています。

「唱門師は、後世の演劇・舞踏・声楽の大切な生みの親である。それと共に、陰陽道・神道を山奥・沖の島まで持ち歩いた。」

下級の陰陽師であり芸能者であった声聞師たちは、どんな芸能を行っていたのでしょうか。
時代によって変化がありますが、まずは声聞師たちが京都で活躍したとされる、室町時代を中心に整理してみます。また声聞師は雑芸能者たちを傘下におきましたが、ここでは声聞師自身が演じたとされる芸能を対象とします。
そうして考えたところ、下記の三種の芸能を、代表的なものとしてピックアップできました。

千秋万歳(せんずまんざい)
曲舞(くせまい)
説経節(せっきょうぶし)


名称だけ見ると、現代人には馴染みのない芸能のようです。しかしどこで見たような気もしてくる字面です。これらが具体的にどんな芸能だったか、そして声聞師との関係を、ごく簡単にまとめてみます。


千秋万歳

中世から存在した門付け芸の一種。正月に民家の門口に立ち、家の繁栄を祝って、祝言を述べながら舞う芸能です。後年、略して「万歳」と呼ばれるようになります。
室町時代には、この千秋万歳を声聞師も行い、内裏でやんごとない人々を前に演じるようになりました。その様子が、当時の貴族に日記に記録されています。声聞師による千秋万歳は、正月の風物詩になっていたようです。
ところが安土桃山時代になると、この状況が大きく変わります。陰陽師と、配下の声聞師が、時の権力者・豊臣秀吉の怒りを買い(詳細は不明)、京都を追い出されたのです。
その後、京都に戻った者もいたようですが、多くの声聞師は地方に分散したままになり、結果として「万歳」も日本各地に広まることになります。尾張万歳や三河万歳なども、この流れにあるものとする説があります。
村や町を巡る庶民の芸能としての万歳は、近代まで生き残り続けます。さらに明治から大正にかけて寄席芸としての「万才」に発展し、昭和のはじめに”しゃべくり”が主体の「漫才」へと進化することになりました。


曲舞

南北朝時代から室町時代にかけて流行した「物語を舞う芸能」です。さまざまな物語を、鼓の伴奏で謡い舞いました。白拍子から派生したと考えられ、能や歌舞伎の原型になったともいわれています。「久世舞」とも書き、「舞」や「舞々」とも称されました。
次第に軍記ものを題材にした「幸若舞(こうわかまい)」が主流になり、戦国武将に愛好されるようになります。織田信長が好んだことで知られる「敦盛」も幸若舞の一つです。
――人間五十年 下天のうちを比ぶれば 夢幻の如くなり―― 
この一節が有名ですね。
もともとは曲舞の専従者が存在していましたが、室町時代に声聞師も持ち芸の一つに取り入れ、千秋万歳の余興として演じました。この曲舞についても貴族の日記に記録が残っています。


説経節

仏教説話を民衆にわかりやすく伝えた語り芸。単に「説経」とも称されます。一字違いの「説教(せっきょう)」とは兄弟のようでありながら別物です。
初期は「ささら」という楽器を摺りながら語っていましたが、しだいに三味線が使用されるようになりました。
「さんせう太夫(山椒大夫)」「をぐり(小栗判官)」「しんとく丸(信徳丸)」「信太妻」「愛護若」など、現在も名が残る物語も、もとは説経節として語られていたものです。
その特徴は、むごたらしい描写が多いこと。そこには虐げられた最下層の民衆の怨念が反映されていました。
室町期から演じられるようになった説経節は、江戸時代初期に隆盛期を迎えます。しかし江戸中期に大流行した義太夫節(浄瑠璃の一種)に押され、姿を消していきました。
しかしDNAが完全に消滅したわけではありません。幕末から明治にかけて、同じく語り物の「祭文」などとかけ合わせた、新しい芸能に生まれかわります。今も残る「浪曲(浪花節)」です。
声聞師との関係でいえば、説経節を演じたとする資料はあるのですが、いつ頃どの場所で演じたのか詳細はわかりません。といっても、私の知識が追いついていないだけで、答えはどこかにあると思います。
ただ一つ明らかなのは、千秋万歳や曲舞と違い貴族の日記には登場しないことです。もともと最下層の者が演じた芸だったため、高貴な身分の人々からは忌避されたと考えられます。
説経節は、もっぱら道の上で、底辺の人々のために語られる物語でした。


昔は――特に中世以前は、芸能はエンターテイメントではなく、宗教行事の一部でした。下級ながら陰陽師であり仏教や神道と関わりがあった声聞師が、様々な芸能を行なったのも、祈祷や呪術のためです。
しかし、それはそれとして、演者として観客(貴族であれ、民衆であれ)を楽しませたいという思いもあっただろうと、勝手に想像してします。もちろん、そうして楽しませることが稼ぎにも繋がったでしょう。
さらにいえば、万歳も曲舞も説経も、必ずしも声聞師が元祖だったわけではないようです。裏を返せば、それは貪欲に流行の芸能を取り入れた、声聞師のたくましさの現われではないでしょうか。
そして、声聞師が演じたことにより、それぞれの芸能は熟成され、後の世に伝わる道筋ができたような気がしています。
声聞師が「日本の文化」の発展に大きく寄与したことが、もっと見直されることを門外漢ながら願います。

(2017年6月5日 誤字を修正)


主な参考資料:
『古代研究Ⅱ 祝詞の発生』著:折口信夫(中公クラシックス)
『柳田國男全集11』著:柳田國男(ちくま文庫)
『生きていく民俗』著:宮本常一(河出文庫)
『ものがたり 芸能と社会』著:小沢昭一(白水社)
『日本の放浪芸』著:小沢昭一(岩波現代文庫)
『日本民衆文化の原郷 被差別部落の民俗と芸能』著:沖浦和光(文春文庫)
『陰陽師の原像 民衆文化の境界を歩く』著:沖浦和光(岩波書店)
『旅芸人がいた風景』著:沖浦和光(文春新書)
『「悪所」の民俗誌 色町・芝居町のトポロジー』著:沖浦和光(文春新書)
『日本の聖と賤』著:野間宏・沖浦和光(河出文庫)
『散所・声聞師・舞々の研究』著:世界人権問題研究センター編(思文閣出版)
『NHKブックス219 さすらい人の芸能史』著:三隅治雄(日本放送出版協会)
『近世陰陽道の研究』著:林涼(吉川弘文館)
『河原ノ者・非人・秀吉』著:服部秀夫(山川出版社)


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表記と読みが諸説あり、名称からして曖昧模糊としている声聞師(唱門師/唱聞師)。
なぜ彼らが気になるかといえば、旅芸人の周辺を調べようとすると、ちょいちょい出てくる言葉だからです。それでちょっと調べ始めたのですが、どうにも正体がつかめません。
確かなのは、それが職業を表す言葉だということ。
そして中世から近世にかけて、西日本を中心に、一定の活躍をした者たちであるということです。
  
では、どんな仕事だったのか。
同じ「師」の付く「万歳師(漫才師の先祖)」のように、「“しょうもん”という芸をする人」だった……というわけではないようです。
ならば具体的にどんなことをしていたかというと、これが多岐にわたり、時代によっても微妙に変化しています。
一言で表せば「民間陰陽師の一種」となるでしょう。

「陰陽師」は夢枕漠さんの小説と、それを原作とした映画によって、一気にメジャーになりました。
陰陽師が平安時代の役人であったことも周知の事実でしょう。しかし明治初期に陰陽寮が廃止されてから昭和までの間、実は陰陽師は世間から忘れられた存在でした。それが平成になって復活するのですから不思議です。
ところが声聞師は、陰陽師が一大ブームとなったの後も日の目を見ることはありませんでした。人気者になったのは安倍晴明に代表される「公務員」の陰陽師だったのです。
彼らを「官人陰陽師」とすると、声聞師は「民間陰陽師」または「下級陰陽師」となります。さらに「官人…」の代表を安倍晴明とすると、「民間…」の代表は蘆屋道満ということができます。
つまりモグリのあやしい陰陽師かといえば、そうではないようです。

声聞師についての記録が多く残るのは、室町時代のことです。
それらによれば声聞師は、正月には禁裏に呼ばれ、貴族の前で万歳や曲舞などの芸能を披露したそうです。土御門家ともつながりがありました。
かといって、宮中のお抱え芸人が本職ではないようです。
声聞師の身分は低く差別的な扱いを受けることもあったのです。

複雑な立場にある声聞師の仕事を、ひとまず手元にある史料をもとに、私なりに整理してみると、下記の三つの柱に分類することができました。
 
[1]
民間陰陽師として占い・祈祷・呪術・読経などを行う。
儀式の一環として千秋万歳や曲舞などの芸能も行う。
その芸能は御所や貴族の邸宅で披露された。
(江戸時代には、庶民の家で門付芸を見せるようになる)

[2]
大きな寺に隷属して、警固・掃除・土木工事などに従事する。
奈良の興福寺などに奉仕していた。

[3]
傘下においた雑芸能者たちを管理する。
雑芸能者とは「七道者」とも呼ばれる下層の芸人たち。
七道者の内容は固定しておらず、たとえば興福寺の大乗院の記録(寛正四年/1463年)では、「猿楽・アルキ白拍子・アルキ御子(巫女)・金タタキ・鉢タタキ・アルキ横行・猿飼」があげられている。
また史料によっては、散所に集まる芸能民の総称を、声聞師とするものもある。

角度を変えて再び一言でまとめると、声聞師は「宗教者であり労働者であり芸能者」ともいえるかもしれません。
また「貴族と比べれば身分はかなり低いが、必ずしも最下層ではない」ともいえそうです。
そして専業ではないにしろ、彼らにとって芸能が重要な仕事の一つだったことは明らかです。



主な参考資料:
世界人権問題研究センター編『散所・声聞師・舞々の研究』(思文閣出版)
海野弘 『秘密結社の日本史』(平凡社新書)
沖浦和光『陰陽師の原像 民衆文化の辺界を歩く』(岩波書店)
沖浦和光 『「悪所」の民俗誌 色町・芝居町のトポロジー』(文春新書)
沖浦和光 『日本民衆文化の原郷 被差別部落の民俗と芸能』(文春文庫)
柳田國男『唱門師の話』(ちくま文庫・『柳田國男全集11』より)
宮本常一『生きていく民俗』(河出文庫)
小沢昭一 『ものがたり 芸能と社会』(白水社)
三隅治雄『さすらい人の芸能史』(NHKブックス)
武田正 『昔話の発見―日本昔話入門―』(岩田書店)
   



今さらながら、「旅芸人」の定義を勝手に定めてみます。資料を元にしたまとめですが、あくまでも独断と偏見によるものです。このブログにおいて記事を書く上での便宜上…ということになります。
また、現代にも旅芸人と呼べる活動をしている人たちは存在していますが、ここで主に取り上げるのは、古代から昭和30年代までの旅芸人になります。

それではまず、私が思う「旅芸人」の定義を一言でまとめてみます。
【「芸を見せること」を、主な生業としている人の中で、「芸を見せる場所」が一つの地域に固定していない人】
ここから、多種多様な旅芸人を、いくつかのカテゴリーに分類します。

①旅に出る期間

 A.一年の大半を、旅に出ている。(専業芸人)
 B.正月など決まった時期だけ、旅に出る。(兼業芸人)


②拠点の有無

 A.拠点となる土地があり、そこに家がある。
 B.拠点はなく、家もない。まったくの根無し草。


③旅をするエリア

 A.「国」をまたいで移動する。江戸時代なら「藩」、明治以降は「県」 を
  越えて旅をする。
 B.一つの都市の中を移動する。主に「江戸」「京都」「大阪」といった
  大都市。


④旅をするメンバー

 A.集団で移動する。一座。そのメンバーは家族であったり、他人の集まり
  であったりする。 
 B.一人で移動する。
 C.人間+動物で移動する。(猿まわし 等)


⑤芸を見せる空間

 A.住宅の門口。(門付け芸)
 B.街道・往来。(大道芸)
 C.寺・神社。
 D.芝居小屋。


⑥芸の種類

 A.人間による芝居。(歌舞伎 等)
 B.人形を操る芝居。(人形浄瑠璃 等)
 C.語り物。(平曲、浄瑠璃、説経節、祭文語り、幸若舞 等)
 D.曲芸、軽業。
 E.物売りの口上。(ガマの油売り、飴屋、寅さん 等)
F.舞踊


⑦芸を披露する目的

 A.芸そのもので収入を得るため。
 B.芸によって客を集めて商品を売るため。
 C.布教活動の一環として。
 D.勧進のため興行。(寺社・仏像の建立や修繕のため寄付をつのる)


以上の定義と分類を軸に、考えていきたいと思います。

(※2017年3月21日 修正)



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声聞師とは何者か?

以前の記事で、試しにざっくりまとめてみましたが、時代によってさまざまな顔を見せていた彼らを、きちんと一言で表すのは難しそうです。手始めに、今わかる限りの断片的な情報を羅列してみます。


・漢字表記は「声聞師」または「唱門師」「唱聞師」「唱文師」。
・読みは「しょうもんじ」または「しょうもじ」「ともじ」。

・中世から江戸時代にかけて活動した門付け芸人。芸を見せ物乞いをした。

・もともと「声聞」は、仏の道を修業して悟りを開いた人を意味していたが、 中世なかばから、下級の俗法師を一般に声聞師と呼ぶようになった。

・金鼓(きんく)を打ち鳴らし、経文を説いた。
・曲舞(くせまい)を舞った。
・万歳や説経も行っていた。
・祈祷や占いも行った。

・土御門家の支配下にあった下級陰陽師・民間陰陽師でもあった。 陰陽寮に勤める公務員の陰陽師とは別の存在。 (土御門家は明治の初めまで、全国の陰陽師を支配していた)
 
・平安時代から京都に村があった。しかし秀吉と土御門家の諍いの影響で、京都を追い出されることになる。

・室町時代には大きい寺社に隷属して、警固・掃除・土木工事などの仕事に従事していた。 奈良の興福寺が代表的で、奈良には五カ所・十座の声聞師グループがあった。そして猿楽・鉢叩き・アルキ巫女など「七道者(物)」と呼ばれた雑芸能者を、その傘下においた。 (七道者とは「六道の外を歩く者」であり、「あらゆる道を歩く《道の者》」であるという)

・出雲阿国も、声聞師の傘下にあった「アルキ巫女」だったという説がある。

・散所(さんじょ)や河原にたむろする芸能民の総称でもあった。 (散所は、寺社などの本所に支配される地)

・江戸時代には乞食と同一視された。身分は非人。



主な参考資料:
 小沢昭一 『ものがたり 芸能と社会』(白水社)
 沖浦和光 『日本民衆文化の原郷 被差別部落の民俗と芸能』(文春文庫)
 沖浦和光 『旅芸人のいた風景 遍歴・流浪・渡世』(文春新書)
 沖浦和光 『「悪所」の民俗誌 色町・芝居町のトポロジー』(文春新書)
 海野弘 『秘密結社の日本史』(平凡社新書)
 林淳 『近世陰陽道の研究』 (吉川弘文館)
 武田正 『昔話の発見―日本昔話入門―』(岩田書店)



【2015/04/24 10:11】 | 旅芸人の種類・分類
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陰陽師と漫才師。
まったく関わりなさそうに見えるこの二つが、実は細い糸で繋がっています。

今も盛んな漫才の元となった芸が、正月に家々を回り、祝福の言葉を述べて舞う門付け芸の「万歳(まんざい)」であることは、ご存知の方も多いと思います。

さらにこの万歳の源は、平安中期に存在した「千秋万歳(せんずまんざい)」であり、これをそもそも行っていたのは「声聞師(しょうもんじ)」と呼ばれる人々でした。

声聞師とは何者か? 
ざっくりまとめると、「芸能の徒」であると同時に「民間の下級陰陽師」であった存在です。
土御門家の支配下にありました。

室町時代には京都に声聞師の村があり、そこから毎年正月には御所に参上して、千秋万歳を舞ったそうです。
普段は陰陽師として、祈祷や占いを行っていました。
彼らにとって芸能は、陰陽師の仕事の一つだったともいえるのかもしれません。

また声聞師は、中世から近世にかけて盛んだった「説経(せっきょう)」という語りの芸を、古くより行った者たちでもありました。

漫才に繋がる万歳、そして説経のはじまりは、陰陽師(声聞師)が行う芸能だったのです。


主な参考資料:
 小沢昭一 『ものがたり 芸能と社会』(白水社)
 沖浦和光 『旅芸人のいた風景 遍歴・流浪・渡世』(文春新書)
 林淳 『近世陰陽道の研究』 (吉川弘文館)



【2015/04/07 23:31】 | 旅芸人の種類・分類
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